苦しみの終わり

悟りのパラダイムと癒しのメカニズム
by 高橋俊彦
カテゴリ
全体
1 二元性を超える
2 存在
3 存在から経験へ
4 今ここにいること
5 欲望
6 振動数とパーソナリティー
7 エネルギー
8 クンダリーニ
9 瞑想
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二元性を超える (非二元)

私たちの住むこの世界は、「善と悪」「光と闇」「自と他」「男と女」というような二元性の世界としてあります。
この相対する2つのものが別々のものであり、分離しているという感覚、すなわち善と悪の対立、自己と他者の分離というイメージの原型は、人の深層意識の中に根深く刷り込まれています。この二元性の分離の認識が、長い間、私たちの世界に葛藤と欠乏感をもたらしてきました。
二元性の分離パラダイムの中では、人は「存在のすべて」から切り離されているという幻想をいだきます。自己と大いなるものが切り離されているという感覚は、人に無価値感や無力感、恐怖や欠乏感をもたらし、争いや貧困の原因となってきました。
現在、人はこの幻想を乗り越えて、自分たちが「存在のすべて」とひとつであることを思い出す過程にあります。分離から統合へと向かい始めているのです。

意識が二元性を統合した領域(存在レベル)に至ると「存在するものすべて」が、実は神そのものであった、神以外は本来何もなかったという認識に至ります。
大空に輝く星々、空を渡る風、海洋の水、大地、草花、生まれては死んでいくすべて生き物など、「存在するものすべて」が神として在ります。
この見方によれば、この宇宙のすべては神の聖なる神殿といえるでしょう。
そして、自分自身もまた神の現れそのものであり、無限の価値と力と愛、歓びと豊かさに値する存在であるということを思い出していきます。
人が長い間忘れていたことを思い出し、本来の自分自身に目覚めていくのです。

二元性の統合は、意識の振動数の上昇と共に起こります。
意識の波動がより精妙で細かくなり、意識が認識の対象物に抵抗することがなくなり、大きく広がっていき、その振動数がある一定の水準を超えたとき、人は二元性には実態がないということに気付くのです。
これが良くてあれが悪い、こちらが上であちらが下と無自覚に思い込んでいた観念が力を失い、二元性は相対的なものにすぎず、世界は何一つ変える必要はなく、ありのままで完全な姿をしているという理解が起こります。

意識の振動数を上げるとは、言い換えれば、それが何であれ一切を無条件に受容することです。すなわち、ものごとの光の側面、成功や健康など望ましいものと同様に、闇の側面、失敗や病気など、一般に忌避すべきものも無条件に受け入れるということから二元性の統合が起こります。
受容に条件を付けることから「善と悪」「自と他」といった二元性の分離が生じるのです。
良いものは受け入れるが、悪いものは拒絶し、非難し、変えようとする心的態度が、苦しみと分離、葛藤を生じさせます。苦しみと葛藤は、あなたが悪と判断した事象それ自体から生じるのではなく、それを否定することから生じるのです。

そもそも二元性は相対的なもので、一方があるから他方もまた存在しえます。
右という概念が左という概念の存在なしには成立しえないように、二元性には本来実体はなく、二つの対立する概念の関係性の中でのみ成立します。
悪というのも相対的なことで、善と判断することの対極を示しているにすぎません。ただ客観的な現象と経験があるだけであり、主観的な判断で、あることが善でその対極が悪であると決めているのです。その判断基準は、判断する者の個人的認識でどのようにでも変化します。

その人の意識の波動が粗い場合、つまり、現実の受容ができず認識の対象物に抵抗している状態では、観念は硬直化し、外部の存在物の印象は「悪」であるかのように思えます。
その反対に、その人の意識の波動が精妙になると、意識は認識の対象物に抵抗することがなくなり大きく広がっていきます。すると、観念は柔軟になり、ひとつのものごとを多くの観点から判断できるようになり、ものごとは善にも悪にもなりえるという理解に至ります。
さらに、ものごとはただ起こっているだけであり、そこから自分で自由に意味を引き出すことができ、ただそうあるままで完全な姿をしているという理解に至るのです。

認識されるものすべてが、実は自分の意識を投影しているだけだということを理解し始めると、自分の意識を変えることが、あらゆる問題の唯一の解決方法であることに気付きます。すると、外側の世界に見えている、自分の思い通りではないものを変えようとしたり、非難したりすることはなくなります。

世界には達成すべき善や、避けるべき悪などもともとなく、世界はそのままで完璧なものとしてすでにあったのです。ただ人の目にはそれが見えていなかっただけなのです。賛成できるものと同様に、賛成できないものにもまた完全性を見ることができます。

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# by amrowaters | 2004-01-01 23:00 | 1 二元性を超える | Comments(4)

存在

意識の波動が上がり、自分自身にも、自分自身を取り巻く世界にも否定すべきことがなくなり、なにものも裁くことがなくなると、意識は二元性を統合した領域に至ります。
この意識領域においては、2つの対立する概念が、矛盾しながら1つに統合されていることに気付くでしょう。
そして、自分が「存在する」ということや、世界が「存在する」ということが、新たな、かつ重大な意味合いを持って目の前に立ち現れます。
自分も自分を取り巻くこの世界も、存在するものすべては、ただそうあるものとして完全であり、すべては神からできているという認識が起こるのです。
同じひとつのものが存在のすべてに行き渡っており、本来、私たちの間に分離はなく、ひとつのものが、さまざまな姿をしてこの世界に現れています。
私たちは、神の分身として、「無限のもの」として創造されているのです。

私たちすべては、ただ「存在する」というだけで無限の価値があり、際限のない喜びを経験できるように創造されています。
自分が価値あるものであることを証明するために、しなければならないことや達成しなければならないことなど何ひとつとしてありません。たとえあなたがどのような状態にあろうとも、一切の条件を付けることなく無限の価値があります。
私たちは、「存在する」、ただそれだけで無限の豊かに値するのです。

イエス・キリストのような人と普通の人々の違いは、自分が完全であるということをどれだけ自覚しているかという点にあります。イエスは、自分が完全であることを自覚しており、普通の人々は、自分が完全であることをまだ思い出していないというだけのことです。
意識の進化とは、自己に内在する神性を思い出すプロセスといえます。
悟りとは、到達すべきことなど何もなく、すでに到達していたということに気付くことです。

「存在のすべて」が神聖なものとしてあります。
それは光であり、光を可能にする闇です。善であり、善を可能にする悪でもあります。
神聖さとは、光と闇、善と悪、その全体性にあります。受容に条件を付けることから心の中に否定すべきものが生まれ、二元性の分離が起こるのです。
二元性の分離のパラダイムの中では、人は望ましいものと望ましくないものあるという固着した判断に囚われてしまいます。
この認識は、善と悪の戦い、闇への恐怖、世界には欠落したものがあるという幻想、ひいては自己と他者の分離、自己と自己の内なる完全性からの分離という感覚を生じさせます。

自分自身を含め、世界に欠落したものがあるという認識は幻想です。自分自身やあなたを取り巻くありのままの現実を愛すれば愛するほど、すべてがそのままで完全であることが分かってくるでしょう。外見上、欠落したものがあるように見えたとしても、それは、さらなる完全へ向かうひとつの完全性の現れです。
ひとつの完全な状態から、より好む別の完全な状態へ移行することはできます。しかし、欠落した状態から、完全な状態へは移行することはできません。

苦しみの只中にあり、どれほど世界が不完全なものに見えたとしても、プロセスの完全性を信頼し、そのままの現実を深く受け入れ、そうした状況にさえ感謝するとき、そこにこの上ない祝福が隠されていたことに気付くでしょう。
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# by amrowaters | 2004-01-01 22:00 | 2 存在 | Comments(0)

存在から経験へ

「存在」という無時間で非二元の至高状態を「経験する」には、二元性と行為、そして時間が必要になります。
私たちの本性は神であり最高のものとして創造されています。この最高のものという「概念」を最高の「経験」に変えるのが私たちが創造された目的です。
経験を作り出すには二元性が必要です。神は自らを経験的に知るために自らを二つに分割して相対性という仕組みを作りました。そして、魂は経験によって自らを知るために何かをしたいと願い、行為を通じて最高の考えを実現しようとします。行為には原因から結果へと向かう時間が付随することになります。

善である自分を経験するためには悪が必要になり、女性である自分を経験するには男性が必要になります。ひとつであることを経験するには分離が必要になり、上を経験するには下が、冷たさを経験するには温かさが必要になります。
自分が何者であるかを経験するには、自分でないものに向き合う必要があり、二元性の中で自分は何者であるかを決定し、最高の状態である自己を実現するのです。
つまり、現実に起こっている事柄のなかで悪という現象を選び出し、善としての自己を実現する、肯定も否定もない本来完璧である現実の中で肯定的な意味を見い出す、相対的な不完全さに気付いたら、さらなる完全性を実現するということです。

自分が選択しなかった一部には、自らを表現するために必要な一部があります。自分が選択しなかった一部を「悪」や「不十分なもの」として否定しないでください。自分の賛成できない意見や行いがあるからこそ、自分が何者であるかを実現し体験できるのです。
争いのあるところで平和を選択した自己を実現でき、苦悩と混乱の中で愛を選択した自己を経験できます。健康な人は自分が健康であるとは意識しません。病気になったときに初めて健康であることの大切さを知るのです。
闇がなければ光を経験することはできません。闇を光の一部として無条件に愛するとき、そこに否定すべきことは何もなく、闇は光と同様に価値あるものになります。そのとき避けるべき闇は消滅するのです。

より豊かでより高度な自己を実現し、より喜びの多い人生を選択することで、個々の魂は最高のものとしての自己を経験します。願望は次に何を経験するかを指し示し、魂は行為によって願望を実現し、新たなより素晴らしい経験を積み重ねていきます。
神性を内側に備えている私たちは、想像しうる限り最高の願望を実現し、自己の偉大さを経験する価値と力を秘めているのです。そして、この宇宙には、個々の魂が最高の経験を実現する完璧な仕組みが備わっています。
神は自らの性質を、私たちを通して経験しようとしているのです。
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# by amrowaters | 2004-01-01 21:00 | 3 存在から経験へ | Comments(0)

今ここにいること

ありのままの現実を無条件に受け入れた存在レベルの意識状態においては、意識は自然と「今ここ」へと焦点を当てるようになります。今ここが常に最善の場所になり、「もっと良いはずの今ここではないどこか」が消滅します。

あるがままの現実を受け入れることができないと、心は現状に対する不足感や欠落感を感じ始め、あるべき理想状態にしなければならないという衝動を感じ始めます。すると意識は、未来にある達成すべき目標へと駆り立てられていき、今ここは、達成すべき目標の手段にすぎなくなります。
自分の幸福は今ここにはなく、未来や別のどこかにあり、それを達成するための衝動は絶え間ない活動を引き起こし、心身は休まることがありません。
たとえ一時的にでも目標を達成することができても、現実を条件付でしか受け入れることのできない心は、次の不足を必ず見つけ出します。満たされるはずの目的地は常に地平線上にあり、そこにたどり着くことは決してありません。
どれほど多くの富を手に入れようとも、どれほど美しい容姿に恵まれていようとも、意識の波動が粗くそのままの現実を受容できなければ、人は不足を経験し、鏡の中に醜さを見つけるでしょう。
現実がどうあるかが問題なのではなく、あなたの在り方があなたの肯定感を決定します。

肯定感に条件を付ける限り、意識は今ここを離れ、苦しみを経験することになります。
もし願望が実現できたら自分は幸せになるのにという思いは、幸福を願望が実現するはずの未来へと押しやり、さらには、幸福を願望の実現という実現するかどうか分からない未確定な条件にかからせることによって、心を常に不安な状態に留め置くことになります。
今ここの意識は満たされない不安な状態のままです。
すべての人が病み、老い、死ぬことを避けられず、すべての人が自由意思を持ち、形あるものは例外なく変化していくこの世界で、幸福の条件を満たすために、自分の外側を変えることで幸せになろうとしても、人は決して幸福になることはありません。
願望実現とは、欠落感を癒すために無常の現実を変えようとする終わることのない苦しみという側面を持ちます。

私たちは今ここに在り、無条件に幸福であることができます。望む現実があろうとなかろうと無関係に喜びの感情を選択することができるのです。
意識が無条件の愛に共鳴し、当たりまえと思っていた現実にも感謝するとき、意識の波動は精妙さを獲得し、意識は今ここに戻り、ありののままの現実に肯定感を感じるようになります。達成すべきことや改善しなければならないことなど、幸福であるための理由や条件は消えていきます。
無条件の愛は、自分が幸福で価値あるものであるために、自分の外側を何ひとつ変える必要がないという理解を生むのです。

愛の状態とは、受容にいかなる条件もつけず、いかなる結果も期待せず、思い通りにならない現実や自分の欠点、自分に苦しみをもたらす原因となるものごとをもそのまま受け入れ、現実がどのようなものであったとしても、それがそのままであることを許し、ありのままの現実を最善のものとして受けとめるということです。
あなたが愛と受容の波動にあり、あらゆるものを許せるようになったとき、あなたは周りで何が起きようとそれらに左右されることはなくなります。あなたは周囲のあらゆる出来事の上にあり、それらの影響下にはないのです。

あなたの波動が上昇し、あなたの在り方が変化すると、それに対応した現実が起こり始めます。肯定的な感情は自分にとって肯定的なものしか引き付けません。逆に否定的な感情、怖れや罪悪感、無価値感は、自分に否定的なものを引き付けます。感情がそれらを活性化させます。
今ここで満たされるとき、満たされた意識の波動は、さらに満たされた次の現実を引き付けます。あなたの愛にあふれた心は、自分自身の価値と完全性を思い出させ、多くの人と物を引き付けるでしょう。
ひとつの充足は、さらに満たされた次の充足へと移行し、際限のない喜びの経験を生み出します。
この宇宙は一瞬の不足も経験することなく、さらなる豊かさを経験できるようにできています。すべての一瞬が完全に満たされえるのです。

天国へ行くのではなく、すでに天国にいたと気付くだけです。受容と理解があるだけで、そのための努力や闘いがあるのではありません。
多くの人は行きたいところへ行くためには、今いる場所を離れなければならないと考えています。そして、天国へ行くために天国を離れ、地獄を経験するのです。
悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、今の自分以外の何者にもなる必要もないと理解することです。
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# by amrowaters | 2004-01-01 20:00 | 4 今ここにいること | Comments(4)

欲望

欲望について洞察を深めるとき、欲望を「怖れを動機にした欲望」と「純粋欲望」の2つに分けると理解が深まります。この2つは多くの場合重なり合っており、明確に分類することは難しいのですが、欲望を理解する上でひとつの指針となるでしょう。

怖れを動機とした欲望とは、人が欠落感や無価値観を抱いており、その欠けているものを補うために何かを欲するときの衝動です。もし自分にこれがあったらきっと満足するだろうと考えて何かを欲します。この欲望を持つ人は、ありのままの現実に肯定感が持てず、自分の期待通りに自分の外側を変えようとします。
例えば、「自分には充分な豊かさがない。だからもっとお金が欲しい。」「自分が価値あるものであるためには他人から評価されなければならない。だから社会的ステータスのある地位を手に入れたい。」「自分が満たされるためには、あの人の愛が絶対に必要だ。」といった思いです。
この欲望が生じるとき、人は自分には何かが欠けていると感じているので、欲望の対象物が、自分の幸福のために絶対必要なものに感じられ、それに執着心を持つようになります。
自分が幸福であるためには、現実は自分の期待通りでなくてはならず、欲した結果が満たされないと苦しみを経験します。
この場合の欲望とは、条件付きの受容に基づいた強迫観念のようなものです。

意識が無条件の愛に共鳴し、存在レベルへと移行するにともなって、世界はそのままで完全であるという認識が深まり、不安や怒り、孤独、無価値感といった負の感情を経験することが減っていきます。すると怖れを動機とした欲望は力を失い、自分の外側を自分の思い通りに変えようとする衝動も減っていきます。
つまり、「必要としなくなる」のです。
特定のものがないと自分は幸せになれないという思いから自由になり、他人を自分の思い通りに振る舞わせる必要からも自由になります。
欲しいと思っても好みの問題であって、絶対に必要というわけではなくなり、欲望から執着心か消えていきます。すると、自分の期待通りでない現実があったとしても苦を経験することがなくなり、起こることをそのまま許せるようになります。
愛は人を満たし、人を無欲にするのです。

意識の在り方が変化し、怖れを動機とした欲望が減少するに従い、欲望はその性質を変え純粋欲望が優位になります。純粋欲望とは、神性を内に秘めたそれぞれの魂が、自らの性質を最高に表現しようと欲する創造への衝動のことです。
例えば、画家がただ素晴らしい絵を描きたいと願い、その衝動に従って絵を描くように、科学者が真理を知りたいと願い、その衝動に従って研究を進めるように、惹かれあう男女が愛するが故にひとつになりたいと欲するように、純粋欲望とは自らの内側から湧きあがる最高の経験への衝動です。
神が私たちを通して自らの栄光を体験したいと欲したその情熱は、願望となって私たちを突き動かします。

存在レベルの意識状態においては、すでに満たされており何ひとつ求める必要はないとという理解が起こるのと同時に、自分は神の現れであり、無限の豊かさと喜びに値するという信頼もまた生まれます。
ここで無欲と大欲が併存することになります。逆説的ですが、「欲望から自由になった意識」と「無限の豊かさを自分に許容する意識」は、実は同じものです。

そもそも何も求める必要はないと分かり、神の現れとして求めるものは全て与えられているのだと分かると、祈りは何かを願うものではなく、感謝の祈りになります。
持っていない何かを求めるのではなく、自分が「存在すること」に感謝し、すでに多くのものが与えられていることに感謝し、たとえ辛い現実があったとしても、それを完全に受容し、自らが創造した価値あるものとして、最善のことが起きていると知って感謝するのです。受容と感謝は、自分が「存在」に完全にサポートされており、望むものは必ず与えられるのだという信頼を生みます。
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# by amrowaters | 2004-01-01 19:00 | 5 欲望 | Comments(0)